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吉田川・新吉田川の跡(大通り公園と、橋の名を集めた陶板)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 町域 / 最終確認日: 2026-09-14

横浜市中区の関内から南へ、細長い帯のような公園が伊勢佐木町の東側を貫いている。横浜市道路局橋梁課の「はしのはなし」第二稿は、吉田川・新吉田川がどこを流れていたかという問いに、正解は中区にある大通り公園だと答える。同じ資料は、この公園をJR関内駅方面から横浜市営地下鉄の伊勢佐木長者町駅をほぼ中央として阪東橋駅にまで至る帯状の公園とし、昭和53年(1978年)9月9日に開園したと記す。

同じ資料は、このあたりの土地を、明暦2年(1656年)から寛文7年(1667年)にかけて吉田勘兵衛が埋め立てたことから吉田新田と呼ばれると記す。明治に入ると新田の中に運河を通す計画が立てられ、未整備の区間だった新吉田川と新富士見川が、群馬県出身の伏島近蔵らの尽力により、それぞれ明治29年(1896年)、明治30年(1897年)に完成した。これにより、すでに明治7年(1874年)に完成していた堀割川を通って、根岸湾から横浜市街地の中心部への航行が可能になったという。運河には多くの橋が架けられ、蓬莱橋・権三橋・鶴之橋・千秋橋が明治5年(1872年)と明治6年(1873年)に、山吹橋・武蔵橋・長島橋・横浜橋・日本橋が明治30年(1897年)頃に架けられたと同じ資料は記す。

大正12年(1923年)の関東大震災で吉田川に架かる橋は被災し、その後の復興事業で架け替えが行われた。復興事業では阪東橋が新設されている。昭和30年代に入ると舟運は衰退し、昭和40年(1965年)に横浜市六大事業が策定されると、川の地下には高速鉄道が、地上には緑の軸線構想にもとづく公園が計画された。同じ資料は、こうして昭和48年(1973年)までに吉田川が廃止されることになったと記す。いま地下を走る地下鉄と、地上の細長い公園は、どちらも消えた運河の道筋の上にある。

架かっていた橋は、すべて廃止された。同じ資料は、当時をしのぶ市民のあいだから、区役所などが保存していた橋名板を使って記念碑を作ってほしいという声が寄せられたと記す。これを受けて市緑政局が中心となり、陶板に橋名板を組み込んだモニュメントが作られ、昭和56年(1981年)に伊勢佐木長者町駅前の連絡通路の壁面に設置された。「橋の詩(はしのうた)」と名づけられたその陶板には、周辺の町名のほか、明治末期・昭和初期・戦後の吉田川・新吉田川の写真も載っているという。

吉田川・新吉田川の跡(大通り公園と、橋の名を集めた陶板)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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