台町の坂(茶屋から海を見おろした神奈川宿の高台)|何があった場所か
横浜駅の北側、旧東海道が丘の上を通る区間に台町がある。横浜市神奈川区の神奈川宿歴史の道の案内は、現在の台町あたりを、かつて神奈川湊を見おろす景勝の地だったと記す。横浜市道路局計画調整部企画課の東海道の案内も、昔の東海道は海に沿って伸びており、神奈川宿が東海道有数の景勝地である袖ヶ浦のそばにあったと記す。いま同じ坂から見えるのは、横浜駅方面の市街地である。
区の案内は、『東海道中膝栗毛』から「爰は片側に茶店軒をならべ、いずれも座敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」という一節を引き、弥次さんと喜多さんが茶店女の声に引かれて立ち寄り、鰺の塩焼をさかなに一杯ひっかけたあと旅を続けたと記す。絵図に見える茶屋のさくらやは現在ある料亭のあたりだといわれ、この付近の地形は今でも旧東海道の面影を残すという。坂の西のはしにあたる上台橋について、区の案内は、かつてこのあたりが潮騒の聞こえる海辺の道だったと記す。
海が消えたのは埋め立てによる。横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第十稿は、江戸時代はじめ、横浜駅周辺が保土ケ谷区の天王町付近を河口とする袖ヶ浦という内湾だったとし、宝永4年(1707年)の富士山噴火で流れ込んだ大量の降灰が沖の水深を浅くし、次第に寄洲や干潟があらわれて、一帯を新田に開発しやすい場所へ変えたと記す。新田開発は江戸時代中期から進み、区の案内は、やがてこのあたり一帯が埋め立てられ、古い神奈川湊から新しいミナトヨコハマへと姿を変えていったと結んでいる。

近くの痕跡
- 権現山の跡(絵図のなかにだけ高い山がある)(地の痕跡・約646m)
- 洲崎大神(まっすぐ南を向く参道と、その先にあった舟着き場)(地の痕跡・約681m)
- 万里橋(日本で最初の鉄道が海を埋めて渡った、その五つの橋のひとつ)(地の痕跡・約782m)
- 神奈川の大井戸(宿場の名水が、屋根と釣瓶をそなえて寺の脇に残る)(水の痕跡・約882m)
時のながれ
- 慶長6年(1601年) — 東海道に宿駅・伝馬制度が定められ、神奈川宿と保土ケ谷宿が開宿したと横浜市道路局の案内は記す。
- 宝永4年(1707年) — 富士山が噴火する。降灰が帷子川から袖ヶ浦へ流れ込み、沖の水深を浅くして、一帯を新田に開発しやすい場所へ変えたと横浜市道路局河川企画課は記す。
- 享和2年(1802年) — 『東海道中膝栗毛』が刊行され、台町の茶屋から見た浪うちぎわの景色が絶景の名所として紹介された。
- 江戸時代中期(1751年から1764年ごろ) — 帷子川河口付近の新田開発が進められる。
- 昭和5年(1930年) — 切り通しの道路ができ、その上に上台橋が架けられた。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市神奈川区の神奈川宿歴史の道のパンフレットは、現在の台町あたりを、かつて神奈川湊を見おろす景勝の地だったと記し、『東海道中膝栗毛』の「爰は片側に茶店軒をならべ、いずれも座敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」という一節を引く。
- 同じパンフレットは、弥次さんと喜多さんが茶店女の声に引かれて立ち寄り、鰺の塩焼をさかなに一杯ひっかけたあと旅を続けたと記し、絵図に見える茶屋のさくらやが現在ある料亭のあたりだといわれ、この付近の地形は今でも旧東海道の面影を残すと記す。
- 同じパンフレットは、神奈川宿歴史の道が西側の上台橋より始まるとし、かつてこのあたりが潮騒の聞こえる海辺の道だったと記す。橋が架けられたのは昭和5年(1930年)で、開発が進んで切り通しの道路ができたのに伴うとする。
- 同じパンフレットは、上台橋を渡り東へ坂道を上りきったあたりに関門跡の石碑が建っているとし、開港後に外国人の殺傷が相次いだため幕府が横浜周辺の主要地点に関門や番所を設けたこと、その一つが西側の神奈川台の関門だったことを記す。
- 同じパンフレットは、やがてこのあたり一帯が埋め立てられ、古い神奈川湊から新しいミナトヨコハマへと姿を変えていったと記す。埋め立てを丘の上から指揮した実業家にちなみ、埋立地は高島町、丘は高島山と呼ばれるようになったとも記す。
- 横浜市神奈川区の神奈川宿歴史の道のページは、宿場町当時のものはほとんど失われているが、台町の坂などに当時の面影を見つけることができると記す。関東大震災と第二次世界大戦によって歴史的遺産の多くを失ったとも記す。
- 横浜市道路局計画調整部企画課の東海道の案内は、昔の東海道が海に沿って伸びており、神奈川宿が東海道有数の景勝地である袖ヶ浦のそばにあったと記す。神奈川宿は宿駅・伝馬制度が定められた1601年に開宿したとも記す。
- 横浜市道路局河川企画課の川のはなし第十稿は、江戸時代はじめ、横浜駅周辺が保土ケ谷区の天王町付近を河口とする袖ヶ浦という内湾だったと記し、宝永4年(1707年)の富士山噴火による降灰が芝生村沖の水深を浅くして寄洲や干潟があらわれ、一帯を新田に開発しやすい場所へ変えたと記す。
- 同じ資料は、東海道五拾三次の神奈川・台之景を、旅籠屋が軒を連ねた神奈川宿から袖ヶ浦を望んだ風景で、現在でいう神奈川駅付近から横浜駅西口方面を望んでいると説明し、享和2年(1802年)刊行の『東海道中膝栗毛』でも絶景の名所として紹介されていると記す。
そのため、このページではこうしています
- 座標は旧東海道が台町を通る区間で、目印として神奈川台の関門跡の石碑の位置に置いた。茶屋が並んでいたのは、そこから東へ下るあたりとされる。
- 坂は現在も人が住み、車が通る生活道路である。歩くときは道を塞がないようにしたい。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 茶屋が何軒並んでいたかを示す公的な資料には到達できなかった。
- 坂のどこからどこまでが景勝の地とされていたかを線で示す公的な資料には到達できなかった。
- 坂から見えていた海の呼び方が資料で異なる。神奈川区のパンフレットは神奈川湊と書き、横浜市道路局の東海道の案内と河川企画課の資料は袖ヶ浦と書く。
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
- 神奈川宿歴史の道
横浜市神奈川区役所 - 神奈川宿歴史の道 説明1(上台橋・神奈川台の関門跡・台町の茶屋ほか)
横浜市神奈川区役所 - 横浜市内の東海道関連情報
横浜市道路局計画調整部企画課 - 川のはなし 第十稿 帷子川(横浜駅周辺の新田開発と河川の歴史)
横浜市道路局河川企画課
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :出典の資料名「川のはなし 第十稿 帷子川(横浜駅周辺の新田開発の歴史)」を、原文どおり「帷子川(横浜駅周辺の新田開発と河川の歴史)」に直した。
- :要約で、絵図の茶屋さくらやの位置を「坂の途中のあたり」としていたのを、パンフレットの書き方(現在ある料亭のあたり)に戻した。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。