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お三の宮日枝神社(入海を釣鐘の形に埋めた吉田新田と、震災で焼け残った本殿)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 地点特定(ピンはお三の宮日枝神社) / 最終確認日: 2026-09-13

横浜市南区の山王町に、お三の宮日枝神社がある。横浜市中央図書館は、吉田新田を、江戸時代初期に江戸の材木・石材商である吉田勘兵衛が大岡川河口部の入海に開発した新田とし、寛文7年(1667年)に完成し、寛文9年(1669年)に吉田新田と命名されたと記す。同じ案内は、大岡川・中村川とJR京浜東北線に囲まれた釣鐘型の形状をしており、隣接する関内地区とともに横浜市域の中核を形成しているとも記す。つまり、この神社の足もとから関内の手前まで続く平地は、もとは海だった。

横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿は、工事の順序を、大岡川の河口にあたる釣鐘型の頂点から始め、大岡川と中村川に沿ってそれぞれ堤防を延ばし、最後に海に面した潮除堤で締め切って範囲を確定したものと推察する。同じ資料の年表は、明暦2年(1656年)に開発が始まり、明暦3年(1657年)に大雨で潮除堤が破壊されて工事が挫折し、万治2年(1659年)2月11日に再開、寛文2年(1662年)に新田への移住が始まったと記す。堤の総延長は7,484メートルにおよび、築造に要した土砂は横浜スタジアム約5.7杯分と見積もられ、野毛の天神橋や山手側の大丸山、横浜村から伸びた砂州などから船で運ばれたという。

神奈川県くらし安全防災局の資料は、この神社について、大正12年(1923年)の関東大震災で周辺一帯が火災により焼失したなかで本殿周辺は焼け残り、隣接する日枝小学校とともに多くの罹災者の避難場所になったと記す。横浜復興誌による9月7日時点の避難者数は3,000名で、掃部山公園とならび横浜では最も多くの避難者が集まった場所だったという。本殿の左後方裏の敷地には献樹碑があり、碑文には、大火の中で風向きが変わって祠殿が残ったこと、半年後に楠の稚樹百株が献じられたことが書かれていると同じ資料は記す。

お三の宮日枝神社(入海を釣鐘の形に埋めた吉田新田と、震災で焼け残った本殿)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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