お三の宮日枝神社(入海を釣鐘の形に埋めた吉田新田と、震災で焼け残った本殿)|何があった場所か
横浜市南区の山王町に、お三の宮日枝神社がある。横浜市中央図書館は、吉田新田を、江戸時代初期に江戸の材木・石材商である吉田勘兵衛が大岡川河口部の入海に開発した新田とし、寛文7年(1667年)に完成し、寛文9年(1669年)に吉田新田と命名されたと記す。同じ案内は、大岡川・中村川とJR京浜東北線に囲まれた釣鐘型の形状をしており、隣接する関内地区とともに横浜市域の中核を形成しているとも記す。つまり、この神社の足もとから関内の手前まで続く平地は、もとは海だった。
横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿は、工事の順序を、大岡川の河口にあたる釣鐘型の頂点から始め、大岡川と中村川に沿ってそれぞれ堤防を延ばし、最後に海に面した潮除堤で締め切って範囲を確定したものと推察する。同じ資料の年表は、明暦2年(1656年)に開発が始まり、明暦3年(1657年)に大雨で潮除堤が破壊されて工事が挫折し、万治2年(1659年)2月11日に再開、寛文2年(1662年)に新田への移住が始まったと記す。堤の総延長は7,484メートルにおよび、築造に要した土砂は横浜スタジアム約5.7杯分と見積もられ、野毛の天神橋や山手側の大丸山、横浜村から伸びた砂州などから船で運ばれたという。
神奈川県くらし安全防災局の資料は、この神社について、大正12年(1923年)の関東大震災で周辺一帯が火災により焼失したなかで本殿周辺は焼け残り、隣接する日枝小学校とともに多くの罹災者の避難場所になったと記す。横浜復興誌による9月7日時点の避難者数は3,000名で、掃部山公園とならび横浜では最も多くの避難者が集まった場所だったという。本殿の左後方裏の敷地には献樹碑があり、碑文には、大火の中で風向きが変わって祠殿が残ったこと、半年後に楠の稚樹百株が献じられたことが書かれていると同じ資料は記す。

近くの痕跡
- 吉野橋(川の埋め立てなどで、同じ型の橋は二つだけになった)(水の痕跡・約136m)
- 新富士見川の跡(八年で消えた先代の川と、跡地の富士見川公園)(水の痕跡・約632m)
- 大原隧道(水道の幹線と人とが、同じ穴を通っている)(水の痕跡・約890m)
- 霞橋(昭和3年の陸橋に、初代・大正2年の煉瓦壁と門柱が残る)(地の痕跡・約927m)
時のながれ
- 明暦2年(1656年) — 幕府から新田開発を許可され、工事に着手したと横浜市道路局河川企画課の年表は記す。
- 明暦3年(1657年) — 大雨のため潮除堤が破壊され、工事が挫折した。
- 万治2年(1659年) — 再び開発が許可され、2月11日から工事を再開した。
- 寛文7年(1667年) — 新田が完成した。寛文9年(1669年)に吉田新田と命名された。
- 大正12年(1923年) — 関東大震災。神奈川県の資料は、周辺一帯が焼けるなかで本殿周辺が焼け残り、9月7日時点で3,000名の避難者が集まったと記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 横浜市中央図書館の企画展示の案内は、吉田新田を、江戸時代初期に江戸の材木・石材商である吉田勘兵衛が大岡川河口部の入海に開発した新田とし、寛文7年(1667年)に完成、寛文9年(1669年)に吉田新田と命名されたと記す。
- 同じ案内は、吉田新田が大岡川・中村川とJR京浜東北線に囲まれた釣鐘型の形状をしており、隣接する関内地区とともに横浜市域の中核を形成していると記す。
- 横浜市道路局河川企画課の「川のはなし」第七稿(令和2年11月)の年表は、明暦2年(1656年)に幕府から許可されて工事に着手し、明暦3年(1657年)に大雨で潮除堤が破壊されて工事が挫折、万治2年(1659年)2月11日に再開、寛文2年(1662年)に新田への移住開始、寛文7年(1667年)に完成、延宝2年(1674年)に検地施行と記す。
- 同じ資料は、堤の総延長を7,484メートルとし、築造に要した土砂を横浜スタジアム約5.7杯分と見積もり、野毛の天神橋や山手側の大丸山、横浜村から伸びた砂州などから船などによって運搬されたと記す。
- 同じ資料は、堤が完成したあと、さらに約10年をかけて新田内部の埋め立てや排水、水門や用水施設の整備が進められ、段々と耕地へ変化していったと記す。また、開発工事の詳細を伝える資料の多くが関東大震災によって消失したとも記す。
- 神奈川県くらし安全防災局の関東大震災の遺構を紹介するページは、この神社について、周辺一帯が火災により焼失したなかで本殿周辺は焼け残り、隣接する日枝小学校とともに多くの罹災者の避難場所になったと記す。横浜復興誌第1巻による9月7日時点の避難者数は3,000名で、掃部山公園とならび横浜では最も多くの避難者が集まった場所だったとも記す。
- 同じページは、本殿の左後方裏の敷地に献樹碑があるとし、碑文に、大火の中で風向きが変わって祠殿が残ったこと、人々が拝殿の下で寝起きしたこと、半年後に楠の稚樹百株が献じられて石に記録されたことが書かれていると記す。
そのため、このページではこうしています
- 座標は神社の位置である。吉田新田そのものは大岡川と中村川に挟まれた広い範囲にあたるため、地図の目印としてこの神社を選んだ。
- 築造に使われた土砂の量について、資料の数値は単位の文字が読み取れなかったため、資料自身の言い換えである横浜スタジアム約5.7杯分だけを引いた。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 神社の創建年を示す公的な資料には到達できなかった。神奈川県の資料は、献樹碑の碑文に大正12年が神社創立250年にあたると書かれていることを紹介するにとどまっている。
- 境内の文化財指定の有無を示す横浜市の一覧には到達できなかった。
- 境内の楠について、神奈川県の資料は計4本があるとしたうえで、2023年7月時点の宮司の話として樹齢はそれぞれ200年以上であり、震災後に植えられた楠との関連は不明と記す。碑文が伝える稚樹百株との対応は、資料からは決められない。
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 横浜市中央図書館企画展示 吉田新田完成350周年
横浜市中央図書館 - 川のはなし 第七稿 大岡川(新田開発と河川改修の歴史)
横浜市道路局河川企画課 - お三の宮(日枝神社)(横浜市南区山王町五丁目)
神奈川県くらし安全防災局
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :見出しの「吉田新田の総鎮守」を改めた。この神社が吉田新田の総鎮守であることを示す記述が、出典のどれにも無かったため。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。