枇杷島青果市場跡(二度動いた市場と、残された広さ)|何があった場所か
名古屋市西区の枇杷島に、市営住宅とスポーツセンターと公園が並ぶ一画がある。名古屋市西区は、徳川家康が慶長16年(1611年)頃、清須市西枇杷島町に開かせた江戸の神田、大阪の天満と並ぶ日本三大市場の一つ、下小田井の市(のちの枇杷島市場)が始まりであるとし、昭和30年(1955年)枇杷島に移り、枇杷島青果市場が開場され多くの卸売りや市場関係者で賑やかであったと記す。江戸時代の市は庄内川の対岸にあり、川を渡ってこちらへ来たことになる。
区は、昭和58年(1983年)に北部市場の開場(豊山町)により枇杷島青果市場が閉鎖され、跡地は市営住宅、スポーツセンター、公園に変わり近隣の人々のスポーツや憩いの場となっていると書く。市場がここにあったのは28年ほどで、そのあと荷はさらに北へ去った。残ったのは市場のかたちではなく、まとまった広さのほうである。青物が集まる場所には、それだけの土地が要るということでもある。

近くの痕跡
- 下小田井の市 跡(西枇杷島問屋記念館)(地の痕跡・約1.3km)
- 四間道(しけみち・元禄の大火のあと四間に広げたと伝わる道)(地の痕跡・約2.2km)
- 名古屋城の初代金鯱(空襲で溶けた雄と、降ろされていた雌)(戦の痕跡・約2.2km)
- 那古野城跡(名古屋城より前に、ここにあった城)(戦の痕跡・約2.5km)
時のながれ
- 慶長16年(1611年)頃 — 徳川家康が、清須市西枇杷島町にあたる場所に市を開かせる。のちに下小田井の市と呼ばれ、江戸の神田・大阪の天満と並ぶ日本三大市場の一つに数えられる。
- 昭和30年(1955年) — 市が枇杷島へ移り、枇杷島青果市場が開場する。多くの卸売りや市場関係者で賑やかであったと区は記す。
- 昭和58年(1983年) — 豊山町に北部市場が開場し、枇杷島青果市場が閉鎖される。
- 現在 — 跡地は市営住宅、スポーツセンター、公園になり、近隣の人々のスポーツや憩いの場となっている。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 名古屋市西区の枇杷島学区の紹介は、徳川家康が慶長16年(1611年)頃、清須市西枇杷島町に開かせた、江戸の神田・大阪の天満と並ぶ日本三大市場の一つである下小田井の市(のちの枇杷島市場)が始まりであると記す。
- 同じ紹介は、昭和30年(1955年)枇杷島に移り、枇杷島青果市場が開場され多くの卸売りや市場関係者で賑やかであったと記す。
- 同じ紹介は、昭和58年(1983年)に北部市場の開場(豊山町)により枇杷島青果市場が閉鎖されたと記す。
- 同じ紹介は、跡地が市営住宅、スポーツセンター、公園に変わり、近隣の人々のスポーツや憩いの場となっていると記す。
そのため、このページではこうしています
- 江戸時代の市そのものは、庄内川の対岸にあたる清須市西枇杷島町にあった。ここは、そこから昭和30年に移ってきたあとの市場の跡地である。同じ市場の前と後で、川を挟んで場所が違う。
- 位置は、跡地の三つの施設のうち地図データで位置の確かなスポーツセンターの点を採った。跡地は広がりを持つため、位置は町域までの精度である。
- 跡地は住宅と公共施設として使われている。施設の利用者の妨げにならないようにしたい。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 市場の敷地がどこからどこまでであったかを示す図面には到達できなかった。跡地の三つの施設がその全部を覆っているかどうかも分からない。
- 市場の建物が取り壊された時期や、跡地の三つの施設がいつ開かれたかを示す公的資料には到達できなかった。
- 市場の時代を示す碑や案内板が現地にあるかどうかは確認できていない。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
参考・出典
1件出典に基づいて掲載している
- 枇杷島学区(西区)の紹介
名古屋市西区役所
この場所について
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