檀渓跡(尾張名所図会に描かれた山崎川の渓谷)|何があった場所か
名古屋市昭和区を流れる山崎川が、檀渓橋のあたりで大きく曲がる。名古屋市昭和区は、山崎川が、檀渓橋あたりで湾曲し、丘陵の裾に沿って南流する付近の渓谷を檀渓(だんけい)と呼んでいましたと記す。そして、江戸末期の尾張名所図会には当時の景勝の様子が描かれていますと書く。区の山崎川の案内も、檀渓は江戸時代の尾張名所図会にも景勝地として紹介されており、檀渓橋のたもとには檀渓之勝跡の碑が建っていますと記す。
区は、区内の山崎川について、川原小学校のあたりから石川橋のあたりまで、檀渓のあたりで大きく湾曲しているのを除いてほぼまっすぐ流れており、途中、出合橋と檀渓橋の間で、五軒家川が注いでいますと書く。渓谷と呼ばれた地形は市街地に覆われて分かりにくくなったが、川の曲がりだけは、いまも地図の上にそのまま残っている。地名としての檀渓は、通りの名と橋の名になって続いている。

近くの痕跡
- 塩付街道(星崎の塩を信州へ運んだ細い道)(地の痕跡・約934m)
- 山崎川の改修跡(鼎小橋とふるさとの川整備区間)(水の痕跡・約1.5km)
- 精進川の付け替えと新堀川(堀留・記念橋付近)(水の痕跡・約3.8km)
- 「松巨嶋」と刻まれた手洗鉢(熊野三社・呼続)(地の痕跡・約3.8km)
時のながれ
- 江戸時代 — 山崎川が丘陵の裾に沿って曲がる一帯が檀渓と呼ばれる。江戸末期の尾張名所図会に、その景勝の様子が描かれる。
- のちに — 檀渓橋のたもとに、檀渓之勝跡の碑が建てられる。
- 現在 — 渓谷は市街地に覆われたが、川の湾曲は残る。区は、区内の山崎川が檀渓のあたりで大きく湾曲しているのを除いてほぼまっすぐ流れていると記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 名古屋市昭和区の檀渓・街道コースの案内は、山崎川が檀渓橋あたりで湾曲し、丘陵の裾に沿って南流する付近の渓谷を檀渓と呼んでいたとし、江戸末期の尾張名所図会には当時の景勝の様子が描かれていると記す。
- 同じ区の山崎川の案内は、檀渓が江戸時代の尾張名所図会にも景勝地として紹介されており、檀渓橋のたもとに檀渓之勝跡の碑が建っていると記す。
- 同じ山崎川の案内は、山崎川を千種区猫ケ洞池に源を発し、名古屋市東部丘陵地を南西に流下し、南部の商工業地帯から名古屋港へ注ぐ延長13.6キロメートルの河川と記す。
- 同じ案内は、区内の流路について、川原小学校のあたりから石川橋のあたりまで、檀渓のあたりで大きく湾曲しているのを除いてほぼまっすぐ流れており、途中、出合橋と檀渓橋の間で五軒家川が注いでいると記す。
- 同じ案内は、檀渓橋の付近から東へ杁中まで八重桜(サトザクラ)の並木道が続いていると記す。
- 名古屋市が公開する市指定文化財の一覧(令和7年8月12日現在)に、檀渓の名は見あたらない。
そのため、このページではこうしています
- 名の由来について、区の公開資料には説明がない。確かなのは、渓谷の呼び名と、尾張名所図会への登場と、橋のたもとの碑の3つである。僧の名に由来するという説は、区以外の資料に出てくるものである。
- 位置は、区が碑を檀渓橋のたもとと書くことに合わせ、檀溪通のうち川に近い町丁のあたりに点を置いた。橋そのものの座標は公的な地点データで引けなかったため、位置は町域までの精度である。
- 川沿いは桜の季節に人が多くなる。護岸や川の中には降りず、歩道と橋の上から眺めたい。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 檀渓之勝跡の碑がいつ建てられたかを示す公的な資料には到達できなかった。
- 渓谷がいつ埋め立てや護岸で今の姿になったかを、年次で示した公的な資料には到達できなかった。
- 尾張名所図会のどの巻のどの図に檀渓が描かれているかまでは確認できていない。
- 檀渓という名の由来について、区の公開資料は説明していない。地名の解説には、江戸期に菩提所白林寺の住職であった檀渓和尚が当地で庵を建てて山崎川の景色を楽しんだ景勝地であることに由来すると書くものがあり、名古屋市計画局のなごやの町名などを参考文献に挙げる。ただし区の公式ページにこの説明は載っていない。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 檀渓・街道コース(昭和区)
名古屋市昭和区役所 - 魅力発見!山崎川(昭和区)
名古屋市昭和区役所 - 市指定文化財一覧
名古屋市
この場所について
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