新開荘(永田)跡|何があった場所か
調査中の記録 この地点は、場所と要約・出典だけを置いた記録のページである。資料の確認がまとまったものから、詳しいページに改めていく。
永田を含む一帯は、興国元年(1340年)に四天王寺の荘園「新開荘」として記録に現れると大阪市城東区公式サイトは記す(永田の地名の由来は不明としている)。

近くの痕跡
- 鴫野古戦場跡(大坂冬の陣・鴫野の戦い)(戦の痕跡・約966m)
- 深江(笠縫の里)と深江稲荷神社(地の痕跡・約1.7km)
- 森の宮遺跡・貝塚(旧河内湾/河内湖岸線の物証)(水の痕跡・約1.8km)
- 放出(はなてん)地名(地の痕跡・約1.8km)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
参考・出典
2件出典に基づいて掲載している
- 区内南東部(区のプロフィール>地名の由来)- 大阪市城東区
大阪市城東区役所(自治体公式) - 地名の由来 - 大阪市城東区(トップ)
大阪市城東区役所(自治体公式)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :編集部の調査メモの「荘園の名は地区名としては『永田』に引き継がれている」を削り、「新開荘」の名は現在の地名に残っていないこと、城東区の公式ページが永田の地名の由来を不明としていることを書いた。新開荘と永田のつながりを記す出典が無かったためだ。
- :説明文の「城東区永田一帯は、低湿な沼地を開いた荘園『新開荘』に由来すると城東区公式サイトで説明されている」を改めた。城東区のページは、永田を含む一帯が興国元年(1340年)に四天王寺の荘園「新開荘」として記録に現れると記し、永田の地名の由来は不明としているため、そのとおりに書いた。
- :説明文の後ろの一文「興国元年(1340年)の記録に現れる地名で、沼地が開発地に変わった痕跡と伝わる。」を削った。10月7日に書き直した前の文と同じ年が2回出ていたうえ、「沼地」を開いたという名の由来は、出典の城東区のページ自身が推定の形で書いているためだ。
この場所について
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