堂島・中之島「島」地名群|何があった場所か
堂島・中之島・福島など「島」の付く地名は、淀川河口に土砂が積もってできた中州や砂州だった土地の名残とされる。福島区の公式ページは、福島を「難波八十島」のひとつと考えられていると記す。江戸期には堂島米市場が栄え、水運都市大阪の中心だった。米市は元禄10年(1697)に堂島へ移り、享保15年(1730)に幕府が堂島米市場を公認した。

近くの痕跡
- 「福島」地名の由来(旧淀川河口の低湿地)(地の痕跡・約462m)
- 曽根崎川(蜆川)跡(水の痕跡・約596m)
- 江戸堀・京町堀川跡(水の痕跡・約886m)
- 「梅田=埋田」地名伝承(地の痕跡・約908m)
時のながれ
- 古代〜中世 — 淀川が運んだ土砂の堆積により大阪湾内に「難波八十島」と呼ばれる砂州群が形成されたとされる。福島区公式サイトは福島を『難波八十島』のひとつと考えられていると記す。
- 1185年 — 『平家物語』に源義経が『渡辺・福島をいでて』と記され、福島の地名が当時すでに存在していたことが示唆される。
- 江戸初期 — 豪商・淀屋(初代常安)が中之島の開拓に力を尽くしたとされる(大阪市の顕彰ページ)。
- 江戸期(1697〜1730年) — 元禄10年(1697)に堂島へ米市が移転、享保15年(1730)に幕府が堂島米市場を公認。世界の組織的先物取引所の先駆けとされる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 大阪市および福島区の公式ページで、堂島米市場、淀屋による中之島の開発、福島を難波八十島とする説を確認した。
そのため、このページではこうしています
- 三つの地名をひとつのピンで代表しているため、位置は目安である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 堂島の語源(薬師堂に由来するという説)と、中之島が中州として形成された経緯については、学術的な一次資料に到達していない。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 18.堂島米市場(どうじまこめいちば)跡碑 - 大阪市
大阪市(公式) - 大阪市福島区:区の概要・地名の由来・区のなりたち
大阪市福島区役所(公式) - 23.淀屋(よどや)の屋敷跡 - 大阪市
大阪市(公式)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :説明文の1文と時のながれの2項目を改めた。説明文は堂島・中之島・福島がみな「難波八十島」の中州だったと言い切っていたため、中州や砂州だった土地の名残とされる、とし、八十島の一つと考えられていると福島区の公式ページが記すのは福島だけだと分けた。時のながれの「明記」も「考えられていると記す」に改めた。淀屋の中之島の開拓の項は、出典に年の記載が無いため「1615年・大坂の陣後」を外した。
- :9月28日の訂正が説明文と時のながれの2項目にとどまり、時のながれの古代〜中世の項に旧の記述(「福島・堂島・中之島などはその一部だったとされる」)が残っていたため、同じ内容に改めた。難波八十島のひとつと考えられていると福島区の公式ページが記すのは福島だけである。
- :説明文に、時のながれにある、米市が堂島へ移った年と幕府が堂島米市場を公認した年を足した。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。